スキップしてメイン コンテンツに移動

⑥ギリギリで災難から逃れる時期

私は好き好んでアジアの辺境をうろついていたので、当然現地で災害等に巻き込まれることもあります。

ただ、大抵の場合近くにいても私に実害は及ばなかったり、急に「もうここ飽きたから出ようかな」と思い立って出国したすぐあとにそこで暴動が起こったりと「偶然」というには運のよすぎる出来事が多く起こりました。

まずは中国留学中に鳥インフルエンザが流行りました。 四川省で本格的に鳥インフルが流行る少し前に幼馴染の結婚式で一時帰国しました。

ついでなので2週間程度日本でゆっくりして帰ってくると、その間にパニックが広がっていたようで、校門まで担当教員と同級生がわたしを迎えに来て、病院に検査に連れていかれてから学校復帰を許されました。

ちょうど一番酷い時期にたまたま日本に帰っていたのです。

その後北京に実習で数か月行く予定だったのですが、ギリギリまで鳥インフル収束宣言が出ないで実習できるか決まらなかったのですが、きっちり6月末に終息宣言が出て、7月から無事北京で実習できるようになりました。

2004年末のスマトラ島沖地震の時は、南インドの田舎町にいました。

朝方津波が来たのですが、私がいた漁村は両氏が20人程度死亡した程度で村の中心地まで水は来なかったので、内陸に一次的に非難する程度で事なきを得ました。

その後カシミールでいた場所から3キロほどのところで幾つかの政府機関が爆破され、外出禁止と停電が3日ほど続いてうんざりしたこともありますが、やはり私自身には何の問題もなしでした。

2009年のバンコクの空港占拠から伊勢丹が入っているビル前の交差点封鎖座り込みの時もバンコクにいたのですが、ちょうどその伊勢丹と繋がっているオフィスビルで働いていたので、1か月以上仕事が出来ず、暇すぎてうんざりして仕事を辞めてタイを出て2-3日後に伊勢丹が入っているショッピングモールが放火され、立ち入り禁止になりました。

いい時に出国したなーというタイミングです。

シンガポールでは、オフィス管理の仕事をしていたのですが、私の最終日が金曜日で、そのまま金曜日の夜便で出国しました。

週明けの月曜日に上の階の水道管が破裂して私がいたオフィス全体が水浸しで修復が大変なことになった、いいタイミングで辞めたねーと連絡がきました。

こんな風にニアミスで災難の近くを通るのですが、巻き込まれることはないのです。

これはもう偶然というより運がいいのだと思います。

もしくは本能的に災難を嗅ぎ分け、直前に逃げているのかもしれません。

コメント

このブログの人気の投稿

お釈迦様のような甥っ子の言葉

こんにちは。 ベイビークリシュナ似の姪の兄である、Jの観察を最近していました。 今年9月に9歳になるJは、もともととても気性のやさしい子で、赤子の時から誰も教えていないのに自分の食べ物を犬たちに分け与えたり、親や周りの大人にも食べさせるなどの行為を自然とする子供でした。 基本が笑顔で情緒が安定している機嫌のいい子なので、乳母車に乗っているときからスーパーのレジのおばさんや、道ですれ違うおばあちゃんなどに大人気で、「あらー、ハンサムボーイねえ、将来は女の子をいっぱい泣かすわねー」などと言われる人気ぶりでした。 幼稚園に行くようになると、その慈悲の心は同級生に向けられ、新入りが来ると、誰も頼んでもいないのに自ら「ここが水飲み場、ここがトイレ」と色々案内してあげて、お弁当をこぼして泣いている子がいると、自らの分を半分分け与え、まだ英語が話せない移民の子が来ても、言語の通じないじじばばとのコミュニケーションに慣れているJは、ちゃんと一緒に遊べるので、先生がこれらの出来事を妹に話した後に、「というわけで、今後は新入りの子のお世話はJに任せることにしようと思って」と言ったそうです。 妹としては、「それは違うんじゃないか」と思ったそうですが。 というのも、JはJで多動の毛があるので、注意散漫になることも多く、妹も近くにいたしっかりしてそうな同級生の女の子に「うちの息子よろしくね」とお願いしたこともあるそうなので、それに任せていいいのか?という思いもあったはずです。 Jの多動性については、バンクーバに来てから私も観察をしてきました。 確かに基本的に機嫌のいいJですが、まだ遊びたいのに帰るよと言われたときや、気分じゃないのに宿題をやれと言われた時など、「自分のやりたくないタイミングでやりたくないことを強制されたとき」は、「クネクネ状態」に入ります。 クネクネして、やるべきことに集中できない状態で、こうなっているときは話も通じません。 話が通じる状態の時に、「この前のあれだけど、ああなってるときは頭の中はどうなってるの?何を考えてああなっているのか?」と聞いてみたら、暫く考えた後、「思い出せない」だそうです。 「その時はその時のことしか考えてない」だそうです。。 これって、お釈迦様の教えの、「今目の前にあることだけに集中」っていうのを実践してるだ...

15年でこんなに変わるなんて!-ヤンゴン

15年ぶりのヤンゴンでしたが、びっくりしました。 Before/Afterまるで別人。言われてもわからない整形手術したレベルの変貌でした。 99年から中国、東南アジア、インドをうろうろしてますが、こんなに大きく変貌を遂げた場所を見たのは初めてです。 15年前のヤンゴンは本当に何もなくて、外国に来たというより、タイムスリップした気分でした。 インターネットも5つ星ホテルにいって、10分数ドル払ってようやくのろのろつながればいいというレベルでした。 マンダレーに居た中国留学生の友人の実家は、なぜか電話が通じなくなって数か月とか言ってましたが、戻ったら別に普通に生活していたので通信インフラがまず、前時代的でした。 ミャンマー人はほぼ巻きスカート姿で、信号はおろか車も60年代のアメリカ車みたいなミニカーがタクシーとしてあるだけで、ほぼ見かけませんでした。 もちろんオフィスビルもないし、モールもないし、室内エアコンもホテルですら5つ星以外あったかどうか怪しかったです。 その分物価も物凄く安かったですが。 で、今回入ったヤンゴンは、どうやったらたった15年でここまで近代都市に変貌を遂げられたのだ?という位変わってました。 道路が新しく舗装され、高いビルやホテルが乱立。ショッピングモールもたくさんできて、仲はタイの地方都市レベルの品ぞろえです。 もちろんレストラン、モール、ホテルやビルの中にも、タクシーにも冷房が効いています。 ホテルでも若干遅いもののWifi繋がり、現地の人はスマホで普通に携帯を使っています。 シェンタゴンパゴダも、入り口にエレベーターが付き、これに乗ってしか出入りが出来なくなっていました。昔はそもそもかなり頻繁に停電が起きていたので、エレベーターもクーラーもあっても使い勝手が悪すぎてという感じでした。 街中で見かける人の数もかなり増えた気がします。 前は首都なのに閑散としてました。 15年でここまで色んななかったものを作り出すには、中国が金も人も投入したんですよね、きっと。さもないとここまでのスピードで変貌を遂げられないと思うのですが、どうなんでしょうか? ヒスイ市場のミャンマー人も英語より中国語を話す人が多くなっていました。 人民元表記してる店もありました。 唯一面影があったのは、街中にあ...

⑧インド占星術を習う-1

シンガポールを出た後、またインドが私を呼んでいる気がしました。 あんまり行きたくなかったけど、行かなければならないあの感じです。 どうせなら、と前から時間があればやってみたかった事リストの中にある、 1)インドでアーユルベータの勉強 2) インドのアシュラム...